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大蔵館跡

 義仲の父義賢は仁平3年(1153)、児玉党を頼って上野国多胡荘に下り、その後、秩父重隆の養子となって武蔵国比企郡大蔵に拠点を置いた。しかし久寿2年(1155)、鎌倉から北関東への勢力拡大をもくろむ甥の源義平(源義朝の長男)の襲撃を受けて殺害された。2歳だった義仲は斎藤実盛、畠山重能らに助けられ、信濃国木曽に逃れたといわれる。義賢によって築かれたといわれる大蔵館は、土塁や空堀の遺構から、東西170~200m、南北220mの規模におよんだと推定されている。館の東方100mには鎌倉街道が南北に縦断しており、南関東に進出する際の交通の要地でもあった。

​訪問雑記

 大蔵への訪問は本サイトの制作を思い立った2015年11月。義仲の試練の人生が始まった場所だけに、境内に入った時の感慨はひとしおでした。神社の東側も館跡として整備されている一帯があり、けっこうな規模の城郭であったことがわかります。鎌倉街道の碑も立派。大蔵館跡の石碑は小さいので見逃し注意です。

源氏三代

​供養塔

 大蔵館から鎌倉街道を挟んで東側に源義賢の墓所と源氏三代(義賢・義仲・義高)の供養塔がある。義賢の供養塔は平安末期に立てられた五輪塔で、義賢の縁者によって建てられたと考えられている。その向かいの御廟堂には次男の義仲、孫の義高の五輪塔が立てられ、義賢のものと合わせて「源氏三代供養塔」と称される。大蔵館の南には義賢の菩提所である大行院神明殿がある。

​訪問雑記

 伝承とはいえ、埼玉県最古級の五輪塔が義賢のものらしいというのは、この地域における義賢の存在の大きさを表しているのでしょう。付近には、近年義仲・義高のために立てられた五輪塔や源平両氏を供養する真新しい板碑が建ち並んでおり、さならが鎮魂の場の趣がありました。人々の義賢への思い入れの深さがうかがえます。

班渓寺・

産湯の清水

 義仲は父義賢が大蔵館に拠点を置いた仁平3年(1153)に生まれた。母小枝御前は大蔵館の西の鎌形に営まれた別邸に住み義仲を生んだという。現在この場所は班渓寺と呼ばれ、「木曽義仲公誕生之地」の碑が立つ。境内には義仲の顕彰碑や義高の母とされる山吹姫の墓などがある。北東にある鎌形八幡神社は坂上田村麻呂の創建とされ、義賢・義仲ゆかりの神社、源氏の氏神として尊崇された。境内には義仲産湯の清水がある。

​訪問雑記

 義仲ファンの聖地といっていい場所ですが、滋賀県大津市の義仲寺や信州の徳音寺などと比べるとやや地味な印象ですね。ここはひとつ、赤子の駒王丸を抱いた実盛の銅像でも建ててみてはどうでしょうか。とはいえ、義仲の顕彰碑や山吹御前の墓など見どころも多く、静かな境内には聖地にふさわしい趣がありました。

畠山氏・

​斎藤氏史跡

大蔵館の北数百mの嵐山町菅谷にある菅谷館跡は畠山重能が館を築いた跡といわれ、二の郭跡に重能の子重忠の石像が建てられている。また、深谷市畠山には菅谷館を築く以前の畠山氏の館跡が史跡公園となっており、重忠と家臣のものといわれる五輪塔や重忠産湯の井戸などがある。深谷市の東の熊谷市西野には斎藤別当実盛の館跡があり、子孫が立てたという板碑がある。国宝聖天堂のある観喜院は実盛の創建とされ、境内には白髪を黒く染める実盛像がある。

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