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義仲紀行
六波羅
西八条
寿永2年(1183)7月、北陸道から上って来た木曾義仲は、延暦寺と提携して京都侵攻の準備を整えた。平家は平知盛・重衡を勢多に、平頼盛を山科に派遣し迎撃の姿勢を見せたが、総帥平宗盛は安徳天皇を奉じての都落ちを決定。25日、平家は一門郎等の邸宅や家屋がひしめく六波羅・西八条を焼き払い、摂津福原を経て西国へ落ちていった。後白河法皇はひそかに院御所を抜け出して延暦寺に逃れ、義仲は叔父の源行家、甲斐源氏の安田義定、近江源氏の山本義経らとともに入京した。義仲は法皇から戦功を称せられ、従五位下左馬頭兼伊予守の官位を賜りとなり栄華は頂点に達した。
訪問雑記
六波羅には何度も足を運びましたが、写真は2011~12年とやや古めです。清水寺から降りてきたその足で向かうことが多いのですが、三年坂の喧騒に辟易した直後だけに、ここに来るとほっとします。一方、若一神社はご無沙汰しており2005年の撮影。近々訪れたい平家スポットの一つです。
法住寺殿
京都御所
平家都落ち後、京の治安維持の責任者となり中央の軍事を掌握した義仲。しかし、配下の武士の狼藉を止めることができず、貴族や都人の不満は高まっていく。さらに、安徳天皇の次の皇位継承問題に口を挟んだことから後白河法皇の不興を買った。法皇は鎌倉の源頼朝と提携し、東国の支配権を公認する一方、義仲を徹底的に敵視した。寿永2年(1183)11月、両者の関係は決裂し、義仲は挙兵して院御所法住寺殿を襲撃。後白河を幽閉して摂政藤原基房と提携して政権を掌握したが、法皇への謀反は鎌倉の頼朝に出兵の口実を与えることとなり、義仲は破滅へと向かっていく。
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