義仲紀行
義仲入京
○砺波山・篠原の戦いで平家軍を撃破!
寿永2(1183)年4月、平家は北陸道の奪回に向けて、平維盛・通盛・経正らを大将軍とする4万騎の追討軍を派遣した。4月下旬、越前に到着した平家軍は、越前・加賀の在地武士が守る燧城への攻撃を開始する。『平家物語』によると、城郭は山に囲まれ、前方は二つの川をせき止められて、湖ほどの巨大な堀を形づくっていたが、平泉寺の長吏斎明の寝返りによって人造湖の弱点を突きとめ、堰を破壊して湖水を斬り落としたので、源氏軍は城を捨てて砺波山に退却したという。
初戦を勝利で飾った平家軍は、5月11日、加賀と越中の国境である砺波山(倶梨伽羅峠)に軍を進める。平家軍を迎え撃つため越前を発った義仲は、砺波山に到着すると今井兼平らに兵を分かち、ひそかに平家軍の側面や背後に回らせた。そして、昼間は弓矢の応酬や小競り合いで時間を稼ぎ、あたりが暗くなり始めたころ一斉に鬨の声をあげて平家の陣へ殺到したのである。合戦は明日と思いこんでいた平家軍は、パニックに陥り我先に逃げ出した。しかし、まっ暗な山中とあって逃げるべき方向が分からない。道を見失った軍兵たちは次々と倶梨伽羅谷へと落ちていき、深い谷底は数万の死骸で埋め尽くされたという。『平家物語』は、その惨状を「巌泉(谷川)血を流し、死骸岳をなせり」と伝えている。
なお『源平盛衰記』は、このとき義仲が4、5000頭の牛の角に松明をつけて平家の陣に送りこむ「火牛の計」によって勝利を得たとする。しかし、これは『史記』にある、斉の田単が牛の角に剣を結びつけ、しっぽに火をつけて敵軍に追い込んだ故事をもとに作られたフィクションと考えられている。確かに、尻尾に火がつくから牛は前方に飛び出すのであって、盛衰記のように角に火をつけたたら恐れて前に進まないだろう。
命からがら撤退した平家軍は加賀国篠原で陣容を立て直し、ふたたび義仲軍と戦ったが、勢いに乗った義仲軍の攻勢を防ぎきれず、またしても惨敗を喫する。錦の直垂を身につけた斎藤実盛が、老人と侮られないために白髪を黒く染めて戦いに臨んだのはこの時である。実盛の首を見た義仲は、悪源太の魔手から救ってくれた恩人の死を悲しみ、丁重に葬るよう涙ながらに命じたという。約500年後、『奥の細道』の旅で当地を訪れ実盛の兜を見た俳人の松尾芭蕉は、「むざんやな甲の下のきりぎりす」と詠んで哀れな老武者をしのんだ。
○砺波山・篠原の戦いで平家軍を撃破!
平家の大軍を破った義仲は怒涛の勢いで北陸道をのぼったが、もう一つ、乗り越えなければならない課題があった。京と近江の間を扼する宗教界の一大権門・比叡山延暦寺を味方につけることだ。当時、平家と比叡山の関係は悪化していたが、平家全盛時は比較的良好な関係を保っており、新興勢力の義仲軍に力を貸すとは限らなかった。
『平家物語』によると、義仲の右筆・大夫坊覚明は、平家の悪行と義仲挙兵の正当性を説く牒状を送るように主君に進言し自ら起草した。もっとも、その文面は「もしかの悪徒(平家)を助けるべくば、衆徒に向かって合戦すべし」という強迫めいたものだったという。平家側も比叡山を氏寺にする旨を伝えたが、衆徒たちは衰運著しい平家に見切りをつけ、義仲を迎えることに衆議一決した。
義仲が入京の態勢に入ると、平家は丹波、宇治、瀬田、山科などの防衛拠点に軍勢を送ったが、間もなく京を死守することを諦めて都落ちを決める。寿永2年7月25日午前10時、平家は一門の邸宅が立ち並ぶ六波羅、西八条を焼き払い、栄華を築いた都を後にした。
翌日、平家が去った都へ義仲および源行家をはじめとする同盟軍が入京した。頼朝軍が東国武士の混成部隊であるのに対して、義仲軍の武将は行家をはじめ、源頼政の孫有綱、美濃源氏の源光長、近江源氏の山本義経・柏木義兼などほとんどが清和源氏だった。頼朝陣営と違い義仲と諸将の間に主従関係はなく、緩やかな同盟といったものであり、それだけに結束が弱かったことも確かだ。後日、源義経との戦いであっけなく敗れ去った背景には、こうした陣営内部の脆弱さもあったのである。
平家を都落ちさせた功績により義仲は従五位下伊予守に任官し、平家没官領(平家の旧領)500余のうち140か所を与えられた。京の警備は入京した源氏の武将たちが分担したが、義仲は総責任者として諸将の上に君臨する。都への一番乗りを果たした義仲は人生の絶頂期を迎えたのである。
平家との決戦に備え、義仲が戦勝祈願を行った護國八幡宮(富山県小矢部市埴生)。義仲の騎馬像や覚明の願書の碑などがある。
猿ケ馬場(富山県小矢部市石坂)は平家軍の総大将平維盛が義仲軍を追討するために諸将を集めて軍議を開いた場所といわれる。
倶梨迦羅古戦場にある火牛の像(富山県小矢部市石坂)。周辺には平家の本陣跡(猿ヶ馬場)、源平供養塔、倶梨迦羅不動寺などがある。
篠原古戦場跡(石川県加賀市柴山町)。斎藤実盛の最後の合戦となった篠原の戦いの舞台。首実験を行う義仲像や実盛の首洗い池がある。
京都御苑(京都市上京区京都御苑)。『平家物語』によると、京に入った義仲は「朝日将軍」の称号を与えられたという。写真は建礼門。