義仲紀行
木曾の風雲児、立つ
○帯刀先生義賢、悪源太に討たれる
木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である--。
幕末から明治にいたる激動期を描いた島崎藤村の『夜明け前』の冒頭の一節である。木曾路とは東山道(江戸時代の中山道)のうち、贄川から馬籠峠付近までの通称だが、明治時代にいたっても険しい山道が続いていた。山深い木曾路の中でも難所として知られたのが、木曾節にも歌われた標高1197メートルの鳥居峠である。その峠にほど近い宮ノ越において、治承4年(1180)9月、一人の男が平家打倒の兵をあげた。源義賢の遺児木曾義仲である。
義仲は久寿元年(1154)、源義賢の次男として生まれた。幼名駒王丸。義賢は源義朝に代わって、一時河内源氏の嫡男と目された人物である。仁平3年(1153)、上野に下向し武蔵の豪族秩父重隆の養子となって上野や武蔵北部に勢力を築いたが、その2年後、北関東への進出をもくろむ悪源太義平によって重隆とともに大蔵館で討たれた。
○畠山重能、斎藤実盛に伴われ木曾へ
当時、数え年2歳だった義平は、乳母夫の中原兼遠に抱かれ、命からがら兼遠の本拠地である木曾に逃れた。『源平盛衰記』によると、義平は畠山重能(重忠の父)に駒王丸の殺害を命じたが、乳飲み子を殺すに忍びなかった重能は、折しも武蔵に下っていた斎藤実盛に駒王を託した。実盛は駒王とその母を伴って木曾に赴き中原兼遠に養育を依頼したという。
青少年期の活動はまったくわからない。河内源氏嫡流の頼朝が形式的ではあるにせよ、在地豪族の監視下で配所生活を送っていたのとは異なり、平家に警戒されることもなく、木曾の山中で伸び伸びと暮らしたと思われる。『平家物語』によると、兼遠に連れられて京にのぼり、平家の繁栄ぶりをうかがいみることもしばしばであった。平家の栄華を目の当たりにすることで、源氏再興の決意を心に刻み込ませたのだろう。はたして、頼朝の挙兵を知った義仲は、「一日も先に平家を攻め落とし、(頼朝とともに)日本国二人の将軍といわれたい」と兼遠に語ったという。
平家を倒して覇を唱えたいという野望は抱いたのは事実だろう。だが、それは平家への恨みからではあるまい。義仲の仇敵はあくまで義平に父を討たせた義朝であり、その息子頼朝だったのではないだろうか。頼朝よりも早く上洛して平家を討ち果たし、頼朝を見返してやりたいという思いが、義仲を打倒平家へと駆り立てたのである。
○横田河原の戦いで強敵城氏を撃破
乳母子の今井兼平とその兄樋口兼光とともに木曾谷で挙兵した義仲は、信濃の麻績・会田で平氏方の勢力と初戦を戦い、9月7日、信濃国市原において信濃の平家家人笠原頼直を破った。10月13日には、義賢ゆかりの地上野国多胡荘に進出したが、頼朝の勢力との衝突を避けるため2か月で撤退する。仇敵頼朝にはばまれ、忸怩たる思いがあったであろうが、相手はすでに関東を制圧し圧倒的に優勢を誇っており、勝ち目はないと判断したのだろう。
義仲の武名を轟かせたのが横田河原の戦いだった。治承5年(1181)6月、平氏の有力家人で越後最大の豪族である城助職が千曲川の横田河原に進出した。ここは越後をはじめ北関東や甲斐へ通じる街道が交わる戦略上の要地であり、戦国時代に武田信玄と上杉謙信が戦った川中島とほぼ同じ場所である。城氏は朝廷の命により甲斐の武田信義を討伐するため、北国街道を南下して横田河原へ向かっており、信濃依田城(長野県上田市)を拠点としていた義仲との激突は不可避であった。
『平家物語』によると、城軍の4万騎に対して義仲軍はわずか3000騎であったという。義仲は兵を7手に分けてそれぞれ赤旗を掲げさせた。これを見た城軍が「味方がついたぞ」といって喜び油断したところ、すかさず源氏の白旗を掲げて攻めかかったため、不意をつかれた城軍は壊乱状態に陥ったという。勢いに乗じた義仲は、城氏の拠点越後に進出して国府を占拠し、北陸地方への足がかりを得た。
義仲の父帯刀先生義賢が滅んだ大倉館跡(埼玉県比企郡嵐山町大蔵)。往時は東西約200m、南北220mの規模り、四隅に土塁や空堀が残る 。
鎌形神社境内にある義仲産湯の清水(埼玉県比企郡嵐山町鎌形)。鎌形には七清水と呼ばれる湧水があり、義仲が産湯に使ったとされる。
義仲の菩提寺の信州・徳音寺(長野県木曽郡木曽町日義)。義仲や巴、今井兼平らの墓、若き日の巴をかたどった乗馬像などがある。
義仲が挙兵した際に戦勝祈願をしたと伝わる旗挙八幡宮(長野県木曽郡木曾町日義)。境内に樹齢1000年を越える大欅がある。
横田河原の戦いは、川中島の戦いとほぼ同じ場所で戦われた。川中島古戦場跡に整備された八幡原史跡公園(長野県長野市小島田町)。