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義仲寺​兼平庵​

 上洛後、配下の武者の狼藉や皇位継承問題への介入などにより孤立を深めていった義仲に対し、後白河法皇は京都からの締め出しを画策する。寿永2年(1183)9月12日、法住寺殿に呼ばれた義仲は、法皇から御剣を手渡され平家追討を命じられたが、これは義仲を京中から追い出すことがねらいだったといわれる。義仲軍は播磨・備前と西へ進み、備中で平家の有力家人である妹尾兼康を滅ぼしたが、備中水島で先鋒の矢田義清・海野幸広が平家軍に大敗。義仲は法皇の進撃命令を拒み、わずか2か月ほどで遠征を打ち切って帰京した。

​訪問雑記

  義仲寺は過去2回訪問しましたが、写真は2013年訪問時のものです。時間があったので打出の浜まで足を延ばせたのが収穫でした。兼平の墓は翌年の撮影で、石山寺とセットで訪問しました。周囲は工場や会社が建ち並び、昔日の面影はありませんでしたが、墓所の周りは聖域にふさわしいひっそりとした雰囲気に包まれていました。

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