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法住寺殿焼き打ち

○兵の略奪を止められなかった義仲の失策

 

 平家の都落ちはひとえに義仲の功績であった。ところが、九条兼実の日記『玉葉』によると、朝廷ではひそかに「第一頼朝、第二義仲、第三行家」という評価を定めていたという。鎌倉から上洛せず、傍観していた頼朝を勲功第一としたのは、朝廷が伊豆の源頼朝を源氏の棟梁と認め、義仲をその配下と見なしていたからにほかならない。頼朝は流人とはいえ前右兵衛権佐の身分をもち、挙兵後は朝廷と音信を交わして敵対の意志がないことを明らかにしてきた。義仲が上洛した時点で、朝廷は頼朝を平家に代わる武門の棟梁として認定していたのである。

 義仲への評価は、指揮官としての力量が明らかになるにつれ、さらに低くなっていった。当時、京は養和の飢饉の影響で多数の餓死者が出ていた。そこへ兵糧の準備もなく数万の大軍が入ってきたため、暴徒化した兵が寺社や人家を破壊し、田畑を残らず刈り取り、諸国からの年貢も奪い取ってしまった。当然、非難の矛先は京中守護の責任者である義仲に向けられる。九条兼実は「たのむところは、ただ頼朝の上洛」と日記に記した。

 山里育ちの武骨な振る舞いも都人の失笑を買った。『平家物語』に有名なエピソードがある。あるとき、猫間中納言光隆という公卿が義仲を訪問した。義仲は「猫が会いに来たのか?」といって、下品な田舎風の椀にご飯をうずたかく盛り上げ、粗末なおかずと汁を出してもてなした。光隆は面食らったが、箸をつけないのも失礼と思い少し食べるふりをしたところ、義仲は「猫殿は小食なのか。評判の猫おろし(猫が食べ物を残すこと)をなさったぞ」といって喜んだ。中納言は用件もろくにいえず邸を逃げ出したという。義仲の人の良さがよく表れたエピソードだが、まともに会話もできない義仲が宮廷社会に受け入れられるはずもなかった。

 

○荒ぶる義仲、院御所を襲撃!

 

 義仲の評価を地に落としたのは皇位継承問題への介入であった。寿永2年(1183)8月18日、後白河法皇は安徳天皇に代わり高倉上皇の四宮である尊成親王(後鳥羽天皇)を立てたが、義仲は北陸に逃れていた以仁王の遺児(北陸宮)を推挙した。従五位下という貴族の末席に過ぎない義仲が皇位継承に口を挟んだことに法皇は憤りを隠さなかった。

 平家の追討さえ順調に進んでいれば、まだ認められたかもしれない。しかし、入京後、主導権を争うようになった行家の台頭をおそれ、容易に京を離れられなくなっていた。後白河にうながされ9月20日にようやく出兵したものの、備中水島の戦いで平家の水軍に大敗を喫し、有力武将の矢田義清(源義康の長男)を失った。上洛前の勢いは姿を消し、その凋落は覆いがたいものになっていた。

 義仲の不在の京では、後白河と頼朝の提携が急速に進んでいた。後白河が頼朝からの奏請を受けて、東国の軍事支配権を認める宣旨を下したのである。そして閏10月、宣旨で約束した年貢の運上を行うとの名目で、源義経に5~600騎を与えて伊勢・近江に進ませた。

 法皇と頼朝の提携を知った義仲は大いに驚き、急ぎ軍勢をまとめて帰洛すると、院御所に押しかけて法皇を非難した。これより、両者の仲は険悪化の一途をたどる。法皇は義仲に対抗して兵を招集し、義仲に従って入京した武将たちは続々と後白河陣営にはせ参じた。形成有利とみた法皇は、義仲に再度平家追討に赴くよう命じ「さもなければ京より退去せよ」と勧告した。義仲は「君に立ち向かう気持ちはありません」と冷静に対応したが、法皇は重ねて洛外退去を要求し、応じない場合は追討の院宣を下すと脅しをかけてきた。ここにいたって義仲の怒りは爆発する。

 11月19日早朝、義仲軍は1000余騎の軍勢を率いて法住寺殿に殺到した。御所を焼き払い、後白河と後鳥羽天皇を幽閉、治承3年(1179)の平清盛によるクーデターを超える廷臣40余人の解官を断行した。平治の乱以来、三たび幽閉の憂き目をみた後白河だが、我が子円恵法親王が殺されたにもかかわらず「御嘆息の気なし」という様子だったという。

 この合戦では、御所にいた天台座主明雲をはじめ、公家や僧侶の多くが犠牲になった。園城寺の長吏円恵は伴の者が法衣や袈裟を脱がせ、紺色の帷子を着せたため義仲方の武者に襲われた。討ち取られた明雲の首を見た義仲は「そんな奴が何だ」といって首を川に捨てたという。法住寺合戦には政治的な思惑や覇権争いといった背景はない。義仲を突き動かしたのは、自分の功を評価しなかった朝廷と法皇に対する憎悪だけだった。

水島の戦い 水島合戦 木曽義仲 矢田義清

岡山県倉敷市の玉島大橋西詰にある水島合戦古戦場の碑(玉島柏島)。平重衡率いる平家水軍が、この地で義仲軍の先鋒矢田義清を破った。

妹尾兼康の墓.JPG

鯉山小学校脇にある妹尾太郎兼康の墓(岡山市北区吉備津)。兼康は兵家譜代の武将で、福隆寺縄手の戦い義仲に敗れて討ち死にした。

新熊野神社.JPG

京都市東山区今熊野椥ノ森町にある新熊野神社。永暦元年(1160)に法住寺殿の鎮守社として勧請された。後白河法皇手植えの樟が残る。

法住寺1.JPG

京都市の三十三間堂(東山区三十三間堂廻リ)も法住寺殿の一部だった。蓮華王院という寺院の本堂で長寛2年(1164)に平清盛が寄進した。

木曽義仲 鴨川 六条河原

五条大橋(京都市下京区南橋詰町)から南の正面橋を望む。この付近はかつて六条河原といわれ平安末期、多くの謀反人が処刑された。

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