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​水島古戦場

 上洛後、配下の武者の狼藉や皇位継承問題への介入などにより孤立を深めていった義仲に対し、後白河法皇は京都からの締め出しを画策する。寿永2年(1183)9月12日、法住寺殿に呼ばれた義仲は、法皇から御剣を手渡され平家追討を命じられたが、これは義仲を京中から追い出すことがねらいだったといわれる。義仲軍は播磨・備前と西へ進み、備中で平家の有力家人である妹尾兼康を滅ぼしたが、備中水島で先鋒の矢田義清・海野幸広が平家軍に大敗。義仲は法皇の進撃命令を拒み、わずか2か月ほどで遠征を打ち切って帰京した。

​訪問雑記

 水島古戦場を訪れたのは2010年。藤島の戦いの戦地とセットで巡りました。新倉敷駅でレンタサイクルを借り、適当に走ったため迷いに迷い、あきらめて帰りかけたほどでした。一方、吉備津の妹尾兼康の墓は2007年に撮影。成親の墓は鯉山の人気のない山中にあり、夕方近くとあって、周囲は静寂に包まれていました。

宇治

​瀬田

 後白河法皇を幽閉し政権を握った義仲は寿永3年1月、征東大将軍となり鎌倉の頼朝との対決姿勢を強めた。義仲は讃岐屋島を拠点に勢力を盛り返す平家との同盟を模索するが、平家の不信感をぬぐうことができず交渉は決裂する。間もなく源範頼・義経率いる鎌倉軍が近づくと、義仲は少ない軍勢を分けて叔父の志太義広を宇治へ、乳母子の今井兼平を近江瀬田へ派遣、自身は法皇の六条御所を警固し迎撃態勢を取った。しかし、宇治川の防衛線は義経軍の速攻により崩れ、洛中に鎌倉軍が乱入。義仲は北陸で再起を図るべく瀬田に向かい兼平と合流したが、範頼軍に行く手を阻まれ自害した。

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