義仲紀行
悲劇の英勇義仲の光と影
○武勇だけではない義仲の魅力
源氏の挙兵と聞くと、すべての源氏が頼朝の傘下にあったかのようにイメージする人もいるかもしれない。しかし、内乱初期の諸国を見回すと、甲斐の武田信義や安田義定、常陸の佐竹秀義、上野の新田義重などの清和源氏の諸族がおり、ある者は以仁王の令旨を奉じて挙兵し、ある者は旗幟を明らかにせず静観を決め込んでいた。頼朝の勢力が抜きん出ていく中で、徐々にその陣営に取り込まれていったのである。その中で最後まで頼朝に屈せず、平家を西海に追って京への一番乗りを果たしたのが義仲だった。
義仲の最大の魅力は、何といっても赫々たる武勲であろう。横田河原の戦い、倶梨迦羅峠の戦い、篠原の戦い、いずれも卓越した戦術と用兵で平家方の大軍を撃破した。しかし、京に入った途端、持ち前の武勇は急速に影をひそめる。代わって現れるのが義仲の庶民的な一面だ。猫間中納言という貴族を猫扱いしてからかい、牛車の乗り降りもできず牛飼いに侮られる。『平家物語』の悪意に満ちた描きぶりは、かえって読者の親近感を喚起し、平家を破った英雄を一気に庶民の身近な存在に惹きつける。それが法住寺焼き討ちという暴挙にすら人々の同情と共感を誘う結果となり、近江粟津における義仲の最期を、いっそう哀れなものとして印象づけるのである。武勇に加え庶民性・悲劇性こそが義仲の魅力なのである。
挙 兵
入 京
2歳で父義賢を殺された駒王丸は、斎藤実盛らの尽力で故郷の武蔵比企郡から信州木曾へ逃れた。それから20余年、たくましい武人に成長した義仲のもとへ平家打倒の密書が届く。
越後に進出した義仲に対して、平家は8万の大軍を送りこむ。義仲は倶梨迦羅峠、篠原の戦いでこれを撃破し北陸道を驀進。比叡山の衆徒を抱き込み、平家を西海に追って悲願の入京を果たした。
○有能な政治顧問の不在が悲劇を招いた?
それにしても、なぜ義仲はわずか半年で没落してしまったのだろう。最大の理由は貴族の支持を得られなかったことだ。『平家物語』では田舎育ちの不作法ゆえに貴族から嫌われたように描かれているが、より深刻だったのは義仲が配下の兵の乱暴狼藉を止められなかったことにある。当時、京は養和の飢饉の影響で食糧が不足しており、そこに大軍で押し寄せたため兵が暴徒と化したのである。また、義仲が皇位継承問題に口をはさんだことも問題視された。一介の武士が王権の専権事項に関与したことが逆鱗に触れたのである。
なぜ義仲は失策を重ねたのか。ここで指摘したいのは、義仲に適切なアドバイスができる政治顧問がいなかったことだ。実は挙兵から入京まで、義仲には大夫坊覚明というブレーンがいた。元興福寺の僧で、学識があり都の事情にも詳しかった。挙兵以来、義仲の傍らにあって戦勝祈願の願文を書いたり、比叡山との折衝にあたったりしたが、入京した途端に影が薄くなる。何らかの理由で遠ざけられたと思われるが、頼朝が大江広元ら京下りの官人を重用したように、義仲も有能なブレーンに恵まれていれば、朝廷との巧みな駆け引きも可能になり、無謀な反逆に走ることもなかったかもしれない。己の武勇だけを頼みにキャリアの頂点を極め、それ故に没落していった悲劇の英雄の姿がそこにある。
謀 反
左馬頭・伊予守となり、軍事貴族の仲間入りを果たした義仲を待っていたのは、後白河法皇の非情な仕打ちだった。法皇の露骨な挑発を受けた末、義仲はついに院御所焼き打ちの挙に出る。
滅 亡
義仲追討の口実を得た源頼朝は、弟の範頼・義経を大将軍とする軍勢を京に派遣する。京を追われた義仲は、琵琶湖畔の粟津の松原において、今井兼平とともにあえない最期を遂げる。