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粟津に散る

○平家との同盟を模索

 

 法住寺殿焼き打ちののクーデターによって、義仲は朝廷の実権を掌握した。しかし、法皇への実力行使は、かねてより京への進出をうかがっていた鎌倉の頼朝に派兵の口実を与えることとなった。鎌倉軍の上洛を予期した義仲は法皇に強要して頼朝追討の宣旨を得たうえ、翌寿永3年(1184)1月、朝廷から征東大将軍に任じられた。さらに義仲は平家との提携を画策し、摂津に進出していた平家に和議の使者を送った。平家と義仲の提携というと一見奇異に思えるが、義仲には平家に対する恨みはない。何度も煮え湯を飲まされた頼朝こそ不倶戴天の敵であった。平家と義仲との和睦交渉は前年秋に始まり、年明けにはかなり具体化していた。義仲は京の防衛を平家に任せ、自らは北陸に下って鎌倉に対抗しようと考えていたといわれる。征東大将軍補任もそうした戦略の一環だったのだろう。

 だが、義仲が後白河を伴って北陸に下ろうとしているという噂が流れ、あるいは平家方の義仲に対する拭いがたい不信感もあって交渉は難航した。しかし、そうした一連の計画も、すべて鎌倉方の迅速な軍事行動によって封殺される。源範頼・義経兄弟率いる鎌倉軍が東海・東山両道から迫ってきたのである。

 

○宇治川の戦い、その時義仲は…

 

 鎌倉軍が美濃に入ったとの情報がもたらされ、義仲が「大いに畏怖した」のは、1月6日のことであった。15日夜、近江に数万の軍勢が終結しつつあることを知った義仲は、19日、鎌倉軍の入京を阻止すべく今井兼平の500余騎を勢多へ、志太義広ら300余騎を宇治へ派遣し、義仲自身はわずか数10騎で後白河法皇の六条御所を固めた。

 鎌倉軍は軍を2手に分け、範頼軍は近江瀬田、義経軍は宇治から京に迫った。戦いは1月20日、宇治の義経軍が渡河作戦を敢行するところから始まった。おりしも、宇治川は雪解け水で水かさが増して激流となっていたが、佐々木高綱と梶原景季の先陣争いに引っ張られるように宇治川を渡った義経軍は、たちまち義仲軍を蹴散らし、一直線に六条御所をめざした。

 義仲は院御所となっていた六条西洞院の平成業邸に赴いて後白河法皇を連行しようとしたが、敵の軍勢が近づいたので諦めて、乳母子の今井兼平と合流するべく近江をめざした。一方、『平家物語』によると、このとき義仲は妾となっていた前関白藤原基房の娘と最後の別れを惜しんでいたが、郎等が腹掻き切って諌めたため、ようやく我に返った。そして六条河原で激闘を繰り広げたのち近江をめざしたという。

 

○木曾最期

 

 一方、勢多で源範頼の軍勢を迎え討っていた兼平は、主君の身を案じて京へ取って返そうとしていた。やがて2人は大津の打出の浜で再会を果たす。兼平が旗をさし上げると、たちまち300余騎が集まった。義仲は「これで最後の戦いができる」と喜び、猛然と敵勢へ駆け込んだ。

 一条次郎、土肥実平をはじめ、次から次へと現れる敵軍を突破するうち、いつしか義仲勢は主従5騎となっていた。その中に巴御前もいたが、義仲は「お前は女だから、どこへなりとも落ちてゆけ」と落ち延びるよう勧めた。巴は離れようとしなかったが、なおもさとされれると「では、最後の戦をして見せましょう」というが早いか敵の荒武者1騎を軽々と討ち取り、東国をさして落ちていった。他の2騎もあるいは討たれ、あるいは落ちて、最後は義仲と兼平の主従2人だけとなった。

「日頃は何とも思わない鎧が、今日はひどく重くなったぞ」。義仲がつぶやくと、兼平は「味方の勢がないために臆病でそのようにおっしゃるのでしょう。兼平一人を武者千騎とお思いください」と励まし、向こうに見える粟津の松原で自害するよう勧めた。「お前と一緒に死ぬためにここまで来たのだ。一緒に討ち死にしよう」とすがりつく義仲。だが、兼平に説得され、義仲はやむなく粟津の松原めざして駒を進める。そして、兼平の安否を気遣いふと振り向いた瞬間、飛んできた矢に顔を射られて絶命した。

 義仲の死を見届けると、兼平は「日本一の剛の者の自害する手本を見よ」といい、太刀の先を口にくわえ、馬より逆さまに飛び降り、刺し貫かれて死んだ。入京からわずか半年、日本中にその名をとどろかせた木曾の風雲児は、こうして粟津の露と消えたのであった。

宇治川.JPG

平等院前の橘の小島(宇治市宇治塔川)から宇治川を望む。宇治川は京都を守る重要な防衛線で、以仁王の乱の際も平家と源頼政が戦った。

橘の小島に立つ「宇治川先陣之碑」。生飡を駆る佐々木高綱と磨墨を操る梶原景季との先陣争いは『平家物語』屈指の名場面として有名。

六条御所は寿永2年、五士らか淡法皇が近臣平業忠の邸宅を自身の御所とした。長講堂(下京区富小路五条下る本塩竈町)はその後身である。

瀬田の唐橋.JPG

瀬田の唐橋(滋賀県大津市瀬田)の夕景。今井兼平は瀬田の唐橋の橋板を取りはずして、源範頼率いる大手軍を迎え討ったという。

京を落ちた義仲が今井兼平と再会を果たした大津の打出の浜(大津市打出浜)。現在は大津湖岸なぎさ公園打出の森として整備されている。

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