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徳音寺

 斎藤実盛らに助けられて信濃国木曾谷に逃れた義仲は挙兵までの25年間、乳母の夫である同地の豪族中原兼遠に養われ、乳母子の今井兼平や巴御前らとともに少年時代を過ごした。徳音寺は仁安3年(1168)、木曾義仲が母の小枝御前の菩提を弔うために建立したのが始まりといわれ、境内には一族の墓所や義仲の霊廟、巴ゆかりの遺物など見どころが多い。徳音寺に隣接する義仲館は、中世の武家屋敷をイメージした資料館で、絵図や古文書、武者人形などで義仲の生涯を紹介している。

​訪問雑記

 訪問は2012年9月。宮ノ越駅で下車し、徒歩で義仲館→徳音寺→巴淵→南宮神社→旗挙八幡宮とめぐりました。白旗たなびく義仲橋を渡り義仲館の銅像と対面した時の感動はひとしお。日本の原風景のような豊かな自然が広がり、やや離れている巴淵までの道も飽きることはありませんでした。

​旗挙八幡宮

 治承4年(1180)、後白河法皇の皇子以仁王が源頼政とともに挙兵し全国の源氏に平家追討の令旨を送った。同年9月、令旨を奉じて挙兵した義仲は、巴御前、および今井兼平、樋口兼光、根井行親、楯親忠ら「木曽四天王」を従えて木曾谷を出撃。信濃の麻績・会田で平家方と初戦を戦い、9月7日、信濃市原で信濃の平家家人笠原頼直を撃破する。そして翌年6月、平家の有力家人で越後最大の豪族である城助職の大軍を千曲川の横田河原で破って越後に進出し北陸道を制圧するのである。

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