義仲紀行
倶利伽羅峠
信濃での挙兵後、破竹の進撃を続ける義仲を追討するため、寿永2年(1183)、平家は平維盛・忠度を総大将とする10万の大軍を北陸道に派遣する。反乱軍の前進基地である越前火打が城、加賀の林六郎・富樫入道の城郭を立て続けに撃破した平家軍は、加賀篠原で軍勢を二手に分け、大手7万騎を加賀と越中の国境にある砺波山に向けた。寡勢の義仲は日中、矢合わせで時間を稼ぎ、夜陰に紛れて奇襲を敢行。平家軍は倶利伽羅峠へ追い落とされ、谷底は平家の軍兵7万騎で埋め尽くされたという。その様子を『平家物語』は「巌泉(がんせん)血を流し、死骸岳(おか)をなせり」と記した。
訪問雑記
倶利伽羅峠古戦場を訪問したのは2004年4月。古い写真なので今はだいぶ変わっているかもしれません。この時は、石動駅からタクシーで倶利迦羅不動寺に行き、古戦場跡を散策した後、山深い旧北国街道を下って小矢部市の護国八幡宮に至りました。地図なしでハラハラの旅でしたが、八幡宮で義仲の騎馬像を見た時は興奮しました。
護国八幡宮
砺波山に侵攻してきた平家軍を迎え撃つべく、羽丹生(埴生)に陣を布いた義仲が先勝祈願をしたのが、小矢部市の埴生護国八幡宮である。『平家物語』によると、義仲の右筆大夫坊覚明書いた願書を鏑矢とともに奉納すると、山鳩が三羽現れて白旗の上を翻った。それを見た義仲は馬を下りて兜を脱ぎ、手水・うがいをして山鳩を拝したという。境内には覚明の願書の石碑や「埴生護國八幡宮は源義仲公の名誉回復を祈願する」と刻んだ石碑、鳥居前には義仲の騎馬像や休憩案内施設の倶利伽羅源平の郷・埴生口など見どころが多い。
お土産
護国八幡宮の社前で購入した「源平倶利伽羅合戦記」。倶利伽羅合戦の戦闘の経過や両軍の陣容・配置などが記されている。特にとじ込みの源平両軍配置図(右)は秀逸。まだ、売っているのかな。
篠原古戦場
倶利伽羅合戦で勝利した義仲は、加賀国篠原で陣容を立て直した平家軍と激突し、ふたたび勝利をおさめる。この時、敗走する平家軍の中にあって、ただ一騎、何度も引き返して防ぎ戦っていたのが、かつて幼い駒王丸を大蔵館から救出した斎藤実盛であった。実盛は老武者と侮られないよう、白髪を黒く染め、平宗盛から拝領した錦の直垂を着て戦場に赴いたが、一騎打ちの末に手塚太郎光盛に討ち取られ、首は義仲の本陣に届けられた。側近の樋口兼光は、かつて実盛が「60歳を過ぎて戦場に赴く時は髪を染めて若々しく見せようと思う」と語っていたことを義仲に聞かせ共に涙した。
訪問雑記
篠原を訪れたのは2017年7月の猛暑の日でした。加賀温泉駅からキャン・バスに乗り中谷宇吉郎雪の科学館前で下車、徒歩数分で首洗池へ。大変だったのは実盛塚。地図なし、徒歩で向かったのですが、なぜか近所の方に聞いても場所が分からず。汗はだらだら、仕事前だったため気ちばかり急いてハラハラの旅になりました。